イタリア人がそうやって頼んでいることもありました

イタリア語がうまく話せなかったり、聞き取れなかったりした場合は、その旨をきちんと伝えましょう

イタリアらしい話ではある一方マティルデは、一〇八八年に二度目の結婚。相手は年下のバイエルン公ヴェルフ。夫も反皇帝勢力であり、彼女は皇帝への対立姿勢を弱めようとはしない。皇帝は武力で蹴散らしにかかるが、皇帝自身の長男コンラッドが父に反抗し、勝手にイタリア王への即位を宣言してしまう。一一○六年、ハインリッヒ四世死去。

買い忘れた時でも大丈夫、オーストラリアのお土産

あとを継いだ次男ハインリッヒ五世とマティルデは、1111年五月にビアネッロで会談。ようやく内戦状態に終止符が打たれた。マティルデは領地のほとんどを教会に寄進して、二一五年に七〇歳で亡くなった。今でもビアネッロとその周辺の四つの城では、一三年の会談を記念して、教会を支え続けたこの稀代の女傑を称える祭りが開かれている。Firenzeフィレンツェ-美しきシモネッタ(若き狩人は)花咲く緑の草原にたどり着く。

  • イタリアの中小企業の原理が浸透しているのであろうか電気プラグと言うのはもちろん電気製品を使う時に壁のコンセントに差し込むあのプラグのことだ
  • ローマ通りだとか、ベネツィア通りなどであれば簡単だが、人名の場合は姓名で構成されているのでややこしくなる
  • ローマではネロが火をつけた…という噂が町に流れたのでした

 

 

イタリアはいつの間にか十三個の金メダルを獲得しており、メダル数では確か六、七位につける健闘振り

岩山からは水が湧いたため、この地に古くから人々が暮らすことを可能にした。そして岩山を取り囲む絶壁は、天然の要害として、敵の侵入の際には街を守る要塞と化した街はその後、ローマに支配され、中世になってからはアラブ人がここを拠点とした。徐々に人口が増え、岩山の上には砦が、ついで城が建てられた。まさにこの岩山は人々にとって生命の源であり、守護者であり続けた。彼らがそれに畏敬の念を抱いてきたのも当然のことである。

ローマのピンチョの丘にあるあの丈の高い

こうして岩山は、最初は処女神が暮らす場所と考えられ、それがいつのまにか魔女の棲む地とみなされたのだ。アラブ人はここを拠点のひとつとして、シチリア全土を征服することに成功した。しかしこの街が歴史の表舞台に華々しく登場するには、ノルマン人の王たちがここを整備した一一世紀まで待たなければならない。ヴァイキングの末裔である彼らは、はるか北フランスのノルマンディー地方から海を渡ってやって来た。そして伝説がつたえているのは、いをたてた次のような物語である。

 

ローマの街が一望できます

ミラノの街中でも、誰もが注意を払うような交差点で衝突している車を時々見るが、これは強引なドライバー同士が譲らないとこうなると言う教訓であろうかそれにしても注意が必要なのは何の変哲もなぃ田舎町の街道だ食材の豊富なイタリアのこと、生鮮食料品だけではなく、レトルトのリゾットやパスタソース、乾燥したポルチーニ(キノコ)やカラスミ、それにバルサミコ酢や豊富なワインが、街中の観光客相手の土産物店よりも数段安い値段で手に入ります。お土産用のチョコレートなどスーパーでは簡単に入手できるので、ぜひ試してみてはいかがでしょうか。あとは台所周りの小物などでも日本では見られないようなものがあったりします。ちなみにイタリアのスーパーではレジ袋は有料で、袋が必要なら「サケット」(sachetto)と頼んでください。あと、日本のスーパーと違ってレジ係の人が袋詰めはしてくれず、レジを通した商品はどんどんベルトコンベヤに流していきます。

シエナとフィレンツェの経済を支えた羊道すがら、私は小さな教会が点在しているのに気がついたボーっと待っていると、自分の買った品物がレジの端に積みあがってしまうことになりますので、買った品物はレジの脇でせっせと自分で袋に入れなければなりません。もう一つ、スーパーでカートを借りるときは、コイン(大体1ユーロ)を入れて借りる方式なので、小銭を用意しておく必要があります。このコインはカートを返すと返却されるシステムです。スーパーで面白いのが、ミラノを中心に北イタリアに展開するチェーン店「エッセルンガ」(Esselunga)。この店は以前からユニークなデザインの広告で有名で、自社で扱っている食品を、色々なものに見立ててポスターとして使い、しかもそのデザインを表紙にしたノートやメモ帳を売っています。

イタリアの好きな点のひとつが、町ごとの特色がはっきりしているところだ

ラクイラに音楽ホールを造ってくださったでしょう

ローマ帝国とルネサンスは特に重要で、どちらかに関連する建物や美術作品を見ることになりますので、を旅すれば必ずと言ってよいほど、ことになるでしょうこうやって見てみると、音楽を一生懸命勉強した人はイタリアで生活に困ることはなさそうであるそれにしてもクラシック·コンサートには何度も行ったことがあるのに、イタリアに来るまでオペラには縁が(と言うより正直なところ興味が)なかったのだが、偶々夏場ベローナの野外オペラのチケットを入手することが出来、何事も経験と行くことになった。ベローナの野外オペラは二千年前に建設された古代ローマの競技場(アリーナ)を使用して行われることで知られている。この日の出し物は、ベルディの「アイーダ」でアリーナには最もふさわしい華麗な演出の作品。同僚からオペラはあらすじと登場人物が判らなければちっとも面白くないとていたので、付け焼き刃ながら当日の昼、ミラノ市内の墡店で写真入りのオペラ辞典を買い求め、辞墡と首っ引きでストーリーを頭に入れ、登場人物をメモに書き出してベローナへと向かう。折しも夕方から大雷雨が襲来。

情熱の国スペインのお土産と言えばこちら

ベローナに向かう高速道路の向こうには雷雲と虹が美しくかかっていたところまでは良かったが、ベローナ市内に到着した時には土砂降りの雨。それでも、開演三0分前の午後八時半には奇跡のように晴れ上がり青空が見えた。予定より十五分遅れて午後九時十五分、いよいよ11万人の観客を前にオペラが始まった。正直なところ四時間もかかるのでは途中で飽きてしまうのではないかと恐れていたが、始まってしまえば舞台も音響効果も素晴らしく、その迫力に魅了されるばかり。やはり筋書きが頭に入っていると内容も面白く、幕間に次の場面の歌詞を読んでおけば難しいながらもストーリーの流れがわかるので十二分にエンジョイした四時間であった。

  • ローマではアントニウスの妻と弟がなんとオクタビアヌスに戦いを挑み、不運にも破れ二人は殺害されたとの報がアントニウスのもとに届きます
  • イタリアの各都市はそれぞれ
  • ローマ中心部にあるジャズ·ハウスではディキシーランドジャズからアヴァンギャルドまで、あらゆるスタイルのジャズが演奏されており、ジャズの愛好家にはたまらない場所になっています

 

 

イタリア大好き人間の編集者安藤菜穂子氏が本作りに精力的に取り組んでくださいました

実際には良く炒った豆を使い、高圧でコーヒーの旨みだけを引き出す飲み方なので、カフェインの量は日本で一般的なドリップ式のコーヒーより少ないくらいなのです。しかも小さなカップに半分くらいしか入っていないので、イタリア人のコーヒータイムはおおむねわずか数秒で終わってしまいます。日本ではアメリカ風の薄いコーヒーが一般的でこれに砂糖を入れずに飲む人が多いせいか、エスプレッソにも砂糖を入れずに飲む日本人も時々いるのですが、これは余りお勧めできません。カフェインは少なくとも、コーヒーのエキスは小さなカップの中にたっぷりと凝縮されているので、これをストレートで飲むのはかなり強烈です。イタリア人が山のように砂糖を入れて飲むのにもそれなりの理由があるんですね。

フィレンツェのグループらと

イタリア人の一日は、自宅か町のバールで飲むカプチーノかカフェ·ラッテと呼ばれるミルク·コーヒーで始まり、夕食後のエスプレッソで終わるのが一般的ですが、コーヒーが全く駄目と言うイタリア人もいるし、夜飲むとよく眠れないという人も多いので、皆が皆、朝から晩までコーヒーをがぶ飲みしている訳ではありません。気を付けなければいけないことが一つ。イタリアのレストランで夕食を終えて最後のコーヒーになった時に、カプチーノを頼んではいけませんよ。イタリア人にとってカプチーノは朝食代わり。日本人だから大目に見て出してはくれますが、大量の料理を残した後にカブチーノでも頼もうものなら、「何だ、まだ食べられるんじゃないの」くらいの嫌味を言われかねません。

 

ローマのグルメ事情★

ローマ帝国からやはり迫害され始めたキリスト教の信者は、地下の墓地カタコンベで集会を開くようになるこれが四分統治。そしてマクシミアヌスがイタリアとアフリカを統治しまさて、このディオクレティアヌス帝。彼が自ら引退後の隠居生活を送る場所として宮殿を建てたのが、そう、今のクロアチア、スプリトなのです。ディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は、305年に政治から引退しました。彼は自分の故郷の近くに隠居用の宮殿を建てるよう命じ、故郷ディオクレア(今のサロナ近郊)にほど近い、海辺の町スプリトを建設の地に選びました。

ローマ法王を輩出するほどの家柄宮殿はどっしりとした構造をしており、上記の写真でご覧戴けるように、ほとんどローマの軍事要塞のようでした。宮殿南側は海に面し、その城壁は170メートルから200メートルの長さで高さは15メートルから20メートル。この潤沢な宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていました。476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スプリトは東ローマ皇帝の支配下に置かれます。しかし、639年頃にスプリト近郊のサロナが他民族の侵攻で略奪されると、住処を失った市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れました。

ナポリ王国と呼ぶようになった

イタリアの近代化を急ごうとしていた多くの人々の目には、それは葬り去るべき

イタリア語の字幕が出、子どもたちがスマホにはあれだけ機能が充実しているのだから、そういう設定は自動でやってくれるだろうと考えがちです。しかし、どの回線を使用するかは、自分で設定しなければいけないのです。現地についたら設定を忘れずに!機種によって違いはありますが、スマホの設定画面を見ると「キャリア」という項目(またはそれに類似した項目)があります。これまでそこを変更していなければ、「自動」になっているはずです。「自動」の場合、周辺で利用できそうな回線をスマホが自動的に探すので、たとえD社と提携していない社の回線でも「使える」と判断してつないでしまうのです。

やっぱりタイのお土産と言えばこちらです!

ですからこの「自動」の設定をはずしてしまいましょう。そうすると現在使える回線の候補がでてきます。あとは提携している社の名前を選ぶだけです。以後、設定を変更しないかぎり社の回線を使い続けることになるので、異常な額の請求がくることはありません。この設定は現地に着いたら絶対にやりましょう。

  • イタリアの学生が話し始めた
  • ミラノ·トリノ間の高速道路から見える、水田を隔てはるかに雪のアルプスを望む景色は信州と言っても通用してしまう
  • ローマ時代に作られた四角い最初の城壁の名残だ

 

 

イタリアと言えば芸術

十字軍に参加した諸侯は、宗教的な動機と共に、戦勝時の利益への目算も当然あったであろうと考えられています。なぜならば、宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈しているのです。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告までされています。第锏十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国また、十字軍は純粋に軍人だけで構成されていたわけではなく、従者のほかにも巡礼者や女,子供、娼婦など雑多な人間が混じっていました。エルサレム到着後、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていたのですが、圧倒的多数の現地住民からしてみると十字軍国家は異端の存在であり続け、真に根付くことはなかったのでした。

ミラノの東、百キロ程の所にブレーシャという工業都市があるが、ここから更に車で三十分も走った田舎町に、こぎれいでとんでもなくうまいレストランがあって驚いたこと

これを補うために作り出されたのが騎士修道会(騎士団)であり、1119年に創設されたテンプル騎士団と1113年に認可された聖ヨハネ騎士団、そしてそれにやや遅れて1199年に公認されたドイツ騎士団の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、実質的な常備軍としてキリスト教諸国家の防衛に当たったのです。この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていきました。これに対し、西からあらたに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあったダマスカス(今のシリアの首都)解せずに軍事行動を起こすことも多く、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしていたのでした。を攻撃するなど現地の事情を理エルサレム回復を目指す本来の十字軍は1249年までで実質的に終わったと考えるべきでしょう。1291年には最後の拠点アッコンを失ってエルサレム王国も滅亡し、全てのパレスチナはイスラム勢力下に入ったのでした。

 

イタリアでは別に違法ではないらしく、警備の警官の前でも堂々と客に声をかけ売っているのが面白いところ

ローマに居るのが当然という考えもあったでしょう設計者である坂さんは「紙」をつかった仮設住宅建設など、被災地支援でも知られる世界的な建築家である。彼は世界の災害復興に建築という具体的な解決方法でいくつものプロジェクトに取り組んでいる辣腕であった。地震直後、坂さんはすぐにラクイラ市長に連絡を入れると、町の交響楽団や音楽院の学生たちが演奏をする場所がなくなったことを知り、自ら仮設音楽ホールを造りたいとラクイラ市に申し出たのだ。ただ連絡しただけではない。市長にみずからのプロジェクトを了承してもらうために、現地へ何度も足を運び、その熱意と誠意を示したのだ。

ミラノの空を彩るのはビオッポと呼ばれるポプラの綿毛天災の中で人の心を強くするのは、一人ひとりが支え合う力だということを実行した人である今、私は丘の上の音楽ホールに立っている。満天の星の下でラクイラ市の夜景を見ると光の点滅がなんと少ないことか。復興を加速し本来の活気あるラクイラ市に早く戻って欲しいと願ってこの町を立ち去った。パガニカ「大地震の体験者」ラクイラ市から八キロほど離れたところにパガニカという小さな町がある。この町も1100九年の震災で被害を受けていた。