ローマになる訳ですね

ローマ帝国を大国に築き上げる要因となるのでした

イタリア出身の哲学者、ジョルダーノ·ブルーノがそれまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、1543年のコペルニクスの地動説を擁護します加えて、人物群はオーバーアクションにもかかわらず、そのようなポーズをとらせて静止画を撮ったような感じだ。実際、シニョレッリはモデルにポーズをとらせていたのだろう。伝記を書いたヴァザーリによる創作だろうにせよ、おそらくはペストで亡くなった愛する息子の遺体を裸にして、黙々とデッサンをするという伝説さえあるような男だ。見た目も心も美しく、愛してやまない息子がコルトーナで殺された時、ルカは深く悲しんだが、服を脱がせて裸にすると、全身全霊を傾けて、泣くことも涙することもなくスケッチした。(ジョルジョ·ヴァザーリ、「LeVite[芸術家列哲』、一五六八年,筆者訳)サン·ブリツィオ礼拝堂の連作壁画の中に、「アンチ·キリスト(偽預言者)」という主題がある。

前景やや右の壇上に立つ、キリストを思わせる容貌の男の耳もとで、悪魔がなにごとか囁きかける。彼のまわりには、その甘言に惑わされたささや人々が集まっている。しかし左奥では、偽預言者は天から真っ逆さまに墜落し、群衆も神の怒りに打たれている。アンチ·キリストを描いた作品は珍しいが、これは明らかにある事件を背景としている。それはフィレンツェで、修道サヴォナローラが民衆を扇動し、メディチ家を追放して政権を一時的に握った事件である。

  • イタリアの都市は生活の中に歴史が生きている町で
  • ローマ時代から使用されるフレスコ画法ではなく、主に卵などを解き合わせて描く
  • イタリア料理の先駆者、落合務氏

 

ローマから抜け出したのでした

きっかけは、ローマで料理見習いの仕事を探していた僕に、ワイン界の重鎮であるジャンニ.マシャレッリ氏がグアルディアグレーレに素晴らしいレストランがあり、そこでアルバイトを募集していると知人を通して教えてくれたのです。ローマからそれほど遠くない場所でしたし近くにはマシャレッリ氏のワイナリーもあり、ソムリエの僕にとって自然も堪能できる最高の場所でした。レストランではシェフたちの湧き上がる情熱の中で豚や羊の美味しい料理を沢山ならいました。もちろん、豚の飼育、ハムなどの製造にまでかかわらせてもらいました彼の話に出たジャンニ·マシャレッリ氏とはアブルッツォ州のワインを世界的に有名にした功労者だった。次回、グアルディアグレーレを訪れるときは名物の「アニエッロ·アッラ·ブラーチェ(仔羊の炭火焼き)」やr仔羊のラグー添えキタッラ」を是非食べたい。

イタリア領エチオピア帝国建国、その東部に位置するエリトリア、ソマリアとあわせて

キエティアブルッツォ国立考古学博物館」遠くからキエティの町が見えたとき、私は「やはり」と思った。アブルッツォ州のどの山岳地帯の町にもいえるように、この町も一つの丘にべったりと家が「へばりつく」鳥の巣のような旧市街を作っていたからだ。旅のフィナーレキエティの町に足を踏み入れたその瞬間、アブルッツォ州の旅のフィナーレを飾るにふさわしい悠久の時が流れる魅力的な古都だと感じた。キエティの旧市街の麓にはアドリア海に注がれるペスカーラ川が流れている。北へ-五キロほど走れば、そこはもう紺碧のアドリア海が広がっている。

 

フィレンツェで開花した芸術家たちと肩を並べるほどだという

イタリアの芸術このコンスタンティアヌスの決断の裏には時代背景の変化というものが存在していたのでした。帝政時代はなにしろ領土を増やすために軍事力が必要でした。その軍事力を保持するためにはどうしても奴隷制度が必要だったのです。しかしイエスは人類は皆平等と唱える。よってキリスト教を迫害してきたローマ帝国の歴史。

ラクイラで最後にどうしても訪れたい場所しかし、帝政時代が長引くにつれ、さらに領土が広がるにつれ、徐々に戦争をしなくてもいい平和な時代がやってきたのです。この流れのもと、奴隷の必要性が薄れてきたのでした。そして徐々にキリスト教を容認する流れが出来上がったのでした。世の中の流れを察知していたローマ帝国は、キリスト教を容認するタイミングを計っていたのですね。そしてちょうどそのタイミングに皇帝だったのが、コンスタンティアヌス帝であり、彼はこれにより後世に名前を強く残すことになるのでした。

ヨーロッパの地図の国境線が間違っており、一時はコインを回収するとかしないとか大騒ぎになった

イタリアを奪い合ったタリアコッツォの戦いドイツ人のゲーテを始め、考えてみれば、せられてきた

ローマに造った霊廟は、その後幾度も役目を変え、今日ではサンタンジェロ城の名で知られているイタリアで最も美しい町の一つその素晴らしい景色を眺めながら走っていたそのとき、斜面にへばりつくように整然とした町が見えた。それはラクイラ県のスカンノという町であった。この町は山間の地とはいえ決してひなびた田舎ではなく、まさに桃源郷だった。そこでは人びとの気質はどのように育まれていったのだろうか。佇まいに、その心ばえがうかがえそうだ。

山から吹き付ける風の抵抗を減らすかのように切り妻屋根」が無数に見えた。切り妻屋根」とは本を開いて伏せたような形の屋根をさすのだが、その三角の部分の「妻側」を正面にして、まるでドミノのようにいくつも連なっていた。その家並みの列が、並行して何列も何列も斜面に段々畑のように並んでいた。まるで中世にできたニュータウンのようだった。町全体の独特なバランスはここを訪れて初めて体感できる。

  • ローマの元老院政府で名を挙げ、要職につくこと
  • ヨーロッパは豊かさをあらわすために恰幅良く、もちろん白人で馬にまたがり、世界に君臨していることを示すように地球儀を抱えている
  • ベローナ市内に到着した時には土砂降りの雨

 

お気に入りのイタリアのお土産

 

イタリアという国は、いつまた分離してもおかしくないと我々外国人には思える

通常、なら、やはり予約しておいた方が無難です。予約客の方が上席に案内されますので、もし景色がよいレストランなどに行くあ、それから一つ重要なポイントですが、イタリアでは公共の場は全て禁煙となっており、室内のレストランやバーレも同様です。従ってレストランは全席禁煙で、喫煙席はありません。但し、夏場などに屋外の庭園や道路わきに設置された座席での喫煙は可能ですので、喫煙者の方はご注意ください。レストランでのメニュー選びを楽しもう!さあ、お目当てのレストランに入ったら、いよいよ注文です。

ローマに、教皇を連れて皇帝がやって来るだろう

何だかドキドキしますね。まずメニューをもらいましょう。観光地では、最近英語のメニューどころか、日本語で書いてあるメニューを用意してあるお店も増えて来ました。でも、「本日のおすすめ」と言った旬の食材を使った料理などは、手書きで別紙にしてはさんである場合が多く、殆どがイタリア語でしか書いてありません。頑張って店員さんと片言のイタリア語、色々説明してくれると思いますので、手真似、足真似でコミュニケーションを図るしかありません。

 

イタリア製品の輸入を通じて

ローマや、場近くにあるアルテンブス宮に展示品が移されています当時、一般の農民たちは粗末な麻織物の洋服を着ており、毛織物は高級服として珍重されていた。王侯貴族や教会関係者に求められていたのであるフィレンツェの毛織物工業が銀行業とならんで一大産業だったのは知っていたが、がこのラクイラ一帯にあったことを、この地を踏んでみて知ることができた。その工場両家のビジネスに大きな影響を及ぽす「商品」が羊であり、その主導権を求めてなりふり構わぬ攻撃の応酬が中世の時代に続いていたに違いない。「羊」が両家の財力を作ったということは、中世のビジネス展開の一端がこの大地に託されていたのだ。アブルッツォの底力はこのであった。

イタリアには幾つもあるんだよ羊とともに文化が運ばれた道、トラットゥーロ「トランスマンツァ」の話がでたら、もうひとつ忘れてはならない「言葉」がある。それは、「トラットゥーロ」というイタリア語だ。羊が移動する(トランスマンツァ)ための道、という意味だ。羊飼いは羊たちが草を見つけながら好きな道を選んで南下するのだとばかり思っていたが、まったく違っていて、必ず定まった「街道に沿って南下しなければならないのであるそれも鉄道と同じで、出発地点があり終着点があるのだ。四通りあるなかから選ぶのであるこの移動こそ伝統、宗教、料理にいたるまで古代から何世紀も続く情報伝達でもあり文化交流でもあった。

イタリアで評判が良くないのは

イタリアもこの地域には山岳部隊を含む大量の軍隊を送り込み、要所要所にトーチカを築くのみならず、現在山小屋になっているような高所まで軍を駐屯させたそう

イタリアにおけるルネサンス文化の一大中心地にまで育てあげたろフィレンツェで活躍していた芸術家ヴェロッキオに弟子入れします.のちに彼は、彼の作品、キリストの洗礼で、ダヴィンチに左側の天使を描かせたところ、それほどまでにダヴィンチの才能は秀でていたのでした。あまりの素晴らしさにヴェロッキオは筆をおったという逸話があります。彼のパトロンであったメディチ家が民衆によりフィレンチェを追い出されたのが、1494年。そこで彼はミラノへ向かい、そして多くの作品を排出するのでした。ミラノのサンタマリアデグラッツェ教会の食堂の壁画、最後の晩餐はもちろん皆様ご存知でしょう遅筆で有名なダヴィンチこの彼が編み出した方法がテンペラ画法です。

やっぱりタイのお土産と言えばこちらです!

ポンペイの遺跡などでご覧戴ける、古代ローマ時代から使用されるフレスコ画法ではなく、主に卵などを解き合わせて描くこの画法は、食堂などの湿気が多い環境には不向きでありまこれが原因となり、この作品はつねに他の画家によりいい加減な修復が重ねられ、オリジナルとは異なって描かれた部分が出来上がってしまったのでした。遠近法をあみだしたレオナルドダヴィンチ。左利きのために文字を右から左に書く、鏡文字を使用したダヴィンチ。そして彼は晩年フランス王家、フランソワ1世(神聖ローマ帝国カール5世のライバル)に仕え、フランスロアール渓谷のアンボワーズ城で没するのでした。ルネッサンス旺盛期第。

  • ミラノから日帰りで手頃に行けるスポットとしてお勧めである
  • イタリア国内で売れたのは四三五台
  • イタリア国内にあるサンマリノ共和国のコインサイズと全体の造りは

 

 

イタリア語で聞かれたときに慌てないための、転ばぬ先の杖です

だからこそアントニオも堂々と、申告書にレオナルドの母の名と、その夫の名まで書くことができたのだろう。ともあれ、おそらく授乳が終わった直後に、産みの母は家からいなくなった。父と新たな母は、ほとんどフィレンツェにいる幼いレオナルドを育てたのは、初孫を溺愛する祖父母であり、「何もしていない」と書かれた叔父フランチェスコだったろう。彼は出来の良い兄に似ず、同じく無職である父ののんびり屋気質を譲り受けていた。彼はわが子のようにレオナルドを可愛がったに違いない。

ローマではジュピターであったし、ギリシャの美の神のアフロディーテはヴィーナス

その後、正式な甥や姪が二人に増えても、彼は当時の慣習に反して、婚外子のレオナルドを遺産相続人に加えたほどだ。こうして穏やかな愛につつまれながら、レオナルドはヴィンチ村で何不自由なく暮らしたはずだ。そして今とほとんど変わらないだろう自然の中で、将来の自然科学者としての博物学的な好奇心をも、自由に育てていったのだろう。Tivoliティヴォリ愛の楽園彼は、すべてを手に入れた--。たったひとつを除いては。

 

海外定額プランの契約をしていても、まったく意味はありません

ローマは芸術の中心地として栄えてきました話を聞いていると座席の上に置いた財布入りの手提げバッグがホンの数秒のうちに消えていたというから、私の知っている日本人が遭遇した手口と全く同じである。このビジネスマンと通路を挟んだ反対側の席には日本人の四五人のグループが乗っていたので、ひょっとすると、この日本人グループを付け狙ってきた犯人が偶々このビジネスマンのバッグを見つけ、チャンス到来とばかり失敬してしまったのかもしれない。もしそうであれば、このビジネスマンにとってはとんだ災難だった訳で気の毒としか言いようがない。不思議なのは、パスポート、航空券と現金の入ったバッグが置き引きにあった日本人で、後でパスポートと航空券だけは見つかったケースが何度かあること。盗む方も盗人の仁義と言ったものでもあるのか、それとも期待以上の現金が入っていたのですっかり気を良くして貴重品だけは返してやろうと言う気になったのだろうか。

海外でも定額制で、SNSやSkypeなどのネット通信が日本と同じように使えて便利ですそれにしてもミラノ市中心部の警察では日本語の盗難届を用意しているというから驚きである(これは私のイタリア人同僚が日本人出張者の盗難届を出すのに同行して実際に目撃しているので間違いのないところ)。同様の置き引きだがちょっと変わったやりかたで、三十人ほどの日本人の団体がレストランにぞろぞろと入る時一緒に入り、着席のどさくさに紛れて私の同僚が椅子の上に置いた鞄を盗んでいった輩がいた。(ちゃんと背広.ネクタイの格好をしており、レストランの人間は同じグループだと思っていたそうだ。これには後日談があり、一ヶ月ほど後になってこの同僚の自宅に、鞄の中に入っていた運転免許証、身分証明書自宅の鍵などがひとまとめになって返送されてきたという。こうなってくると、この商売も鞄の置き引き、金目の物の回収、余計なものの返送までシステムとして確立しているのかと疑いたくなるもう少し複雑な手口としてはアイスクリームを服にわざとくっつけ、これを拭いている間に財布を頂くという今や古典的となった方法に加え、たまたまホテルの入口の外で待ち合わせをしていた日本人出張者に1人が公衆電話の使い方を聞いて注意をそらせ、その隙に足下に置いたアタッシュケースをもう一人の仲間が失敬したとのケースもある(やはり鞄は足の間に挟むしかなさそうだ)。

イタリア人がそうやって頼んでいることもありました

イタリア語がうまく話せなかったり、聞き取れなかったりした場合は、その旨をきちんと伝えましょう

イタリアらしい話ではある一方マティルデは、一〇八八年に二度目の結婚。相手は年下のバイエルン公ヴェルフ。夫も反皇帝勢力であり、彼女は皇帝への対立姿勢を弱めようとはしない。皇帝は武力で蹴散らしにかかるが、皇帝自身の長男コンラッドが父に反抗し、勝手にイタリア王への即位を宣言してしまう。一一○六年、ハインリッヒ四世死去。

買い忘れた時でも大丈夫、オーストラリアのお土産

あとを継いだ次男ハインリッヒ五世とマティルデは、1111年五月にビアネッロで会談。ようやく内戦状態に終止符が打たれた。マティルデは領地のほとんどを教会に寄進して、二一五年に七〇歳で亡くなった。今でもビアネッロとその周辺の四つの城では、一三年の会談を記念して、教会を支え続けたこの稀代の女傑を称える祭りが開かれている。Firenzeフィレンツェ-美しきシモネッタ(若き狩人は)花咲く緑の草原にたどり着く。

  • イタリアの中小企業の原理が浸透しているのであろうか電気プラグと言うのはもちろん電気製品を使う時に壁のコンセントに差し込むあのプラグのことだ
  • ローマ通りだとか、ベネツィア通りなどであれば簡単だが、人名の場合は姓名で構成されているのでややこしくなる
  • ローマではネロが火をつけた…という噂が町に流れたのでした

 

 

イタリアはいつの間にか十三個の金メダルを獲得しており、メダル数では確か六、七位につける健闘振り

岩山からは水が湧いたため、この地に古くから人々が暮らすことを可能にした。そして岩山を取り囲む絶壁は、天然の要害として、敵の侵入の際には街を守る要塞と化した街はその後、ローマに支配され、中世になってからはアラブ人がここを拠点とした。徐々に人口が増え、岩山の上には砦が、ついで城が建てられた。まさにこの岩山は人々にとって生命の源であり、守護者であり続けた。彼らがそれに畏敬の念を抱いてきたのも当然のことである。

ローマのピンチョの丘にあるあの丈の高い

こうして岩山は、最初は処女神が暮らす場所と考えられ、それがいつのまにか魔女の棲む地とみなされたのだ。アラブ人はここを拠点のひとつとして、シチリア全土を征服することに成功した。しかしこの街が歴史の表舞台に華々しく登場するには、ノルマン人の王たちがここを整備した一一世紀まで待たなければならない。ヴァイキングの末裔である彼らは、はるか北フランスのノルマンディー地方から海を渡ってやって来た。そして伝説がつたえているのは、いをたてた次のような物語である。

 

ローマの街が一望できます

ミラノの街中でも、誰もが注意を払うような交差点で衝突している車を時々見るが、これは強引なドライバー同士が譲らないとこうなると言う教訓であろうかそれにしても注意が必要なのは何の変哲もなぃ田舎町の街道だ食材の豊富なイタリアのこと、生鮮食料品だけではなく、レトルトのリゾットやパスタソース、乾燥したポルチーニ(キノコ)やカラスミ、それにバルサミコ酢や豊富なワインが、街中の観光客相手の土産物店よりも数段安い値段で手に入ります。お土産用のチョコレートなどスーパーでは簡単に入手できるので、ぜひ試してみてはいかがでしょうか。あとは台所周りの小物などでも日本では見られないようなものがあったりします。ちなみにイタリアのスーパーではレジ袋は有料で、袋が必要なら「サケット」(sachetto)と頼んでください。あと、日本のスーパーと違ってレジ係の人が袋詰めはしてくれず、レジを通した商品はどんどんベルトコンベヤに流していきます。

シエナとフィレンツェの経済を支えた羊道すがら、私は小さな教会が点在しているのに気がついたボーっと待っていると、自分の買った品物がレジの端に積みあがってしまうことになりますので、買った品物はレジの脇でせっせと自分で袋に入れなければなりません。もう一つ、スーパーでカートを借りるときは、コイン(大体1ユーロ)を入れて借りる方式なので、小銭を用意しておく必要があります。このコインはカートを返すと返却されるシステムです。スーパーで面白いのが、ミラノを中心に北イタリアに展開するチェーン店「エッセルンガ」(Esselunga)。この店は以前からユニークなデザインの広告で有名で、自社で扱っている食品を、色々なものに見立ててポスターとして使い、しかもそのデザインを表紙にしたノートやメモ帳を売っています。

イタリアの好きな点のひとつが、町ごとの特色がはっきりしているところだ

ラクイラに音楽ホールを造ってくださったでしょう

ローマ帝国とルネサンスは特に重要で、どちらかに関連する建物や美術作品を見ることになりますので、を旅すれば必ずと言ってよいほど、ことになるでしょうこうやって見てみると、音楽を一生懸命勉強した人はイタリアで生活に困ることはなさそうであるそれにしてもクラシック·コンサートには何度も行ったことがあるのに、イタリアに来るまでオペラには縁が(と言うより正直なところ興味が)なかったのだが、偶々夏場ベローナの野外オペラのチケットを入手することが出来、何事も経験と行くことになった。ベローナの野外オペラは二千年前に建設された古代ローマの競技場(アリーナ)を使用して行われることで知られている。この日の出し物は、ベルディの「アイーダ」でアリーナには最もふさわしい華麗な演出の作品。同僚からオペラはあらすじと登場人物が判らなければちっとも面白くないとていたので、付け焼き刃ながら当日の昼、ミラノ市内の墡店で写真入りのオペラ辞典を買い求め、辞墡と首っ引きでストーリーを頭に入れ、登場人物をメモに書き出してベローナへと向かう。折しも夕方から大雷雨が襲来。

情熱の国スペインのお土産と言えばこちら

ベローナに向かう高速道路の向こうには雷雲と虹が美しくかかっていたところまでは良かったが、ベローナ市内に到着した時には土砂降りの雨。それでも、開演三0分前の午後八時半には奇跡のように晴れ上がり青空が見えた。予定より十五分遅れて午後九時十五分、いよいよ11万人の観客を前にオペラが始まった。正直なところ四時間もかかるのでは途中で飽きてしまうのではないかと恐れていたが、始まってしまえば舞台も音響効果も素晴らしく、その迫力に魅了されるばかり。やはり筋書きが頭に入っていると内容も面白く、幕間に次の場面の歌詞を読んでおけば難しいながらもストーリーの流れがわかるので十二分にエンジョイした四時間であった。

  • ローマではアントニウスの妻と弟がなんとオクタビアヌスに戦いを挑み、不運にも破れ二人は殺害されたとの報がアントニウスのもとに届きます
  • イタリアの各都市はそれぞれ
  • ローマ中心部にあるジャズ·ハウスではディキシーランドジャズからアヴァンギャルドまで、あらゆるスタイルのジャズが演奏されており、ジャズの愛好家にはたまらない場所になっています

 

 

イタリア大好き人間の編集者安藤菜穂子氏が本作りに精力的に取り組んでくださいました

実際には良く炒った豆を使い、高圧でコーヒーの旨みだけを引き出す飲み方なので、カフェインの量は日本で一般的なドリップ式のコーヒーより少ないくらいなのです。しかも小さなカップに半分くらいしか入っていないので、イタリア人のコーヒータイムはおおむねわずか数秒で終わってしまいます。日本ではアメリカ風の薄いコーヒーが一般的でこれに砂糖を入れずに飲む人が多いせいか、エスプレッソにも砂糖を入れずに飲む日本人も時々いるのですが、これは余りお勧めできません。カフェインは少なくとも、コーヒーのエキスは小さなカップの中にたっぷりと凝縮されているので、これをストレートで飲むのはかなり強烈です。イタリア人が山のように砂糖を入れて飲むのにもそれなりの理由があるんですね。

フィレンツェのグループらと

イタリア人の一日は、自宅か町のバールで飲むカプチーノかカフェ·ラッテと呼ばれるミルク·コーヒーで始まり、夕食後のエスプレッソで終わるのが一般的ですが、コーヒーが全く駄目と言うイタリア人もいるし、夜飲むとよく眠れないという人も多いので、皆が皆、朝から晩までコーヒーをがぶ飲みしている訳ではありません。気を付けなければいけないことが一つ。イタリアのレストランで夕食を終えて最後のコーヒーになった時に、カプチーノを頼んではいけませんよ。イタリア人にとってカプチーノは朝食代わり。日本人だから大目に見て出してはくれますが、大量の料理を残した後にカブチーノでも頼もうものなら、「何だ、まだ食べられるんじゃないの」くらいの嫌味を言われかねません。

 

ローマのグルメ事情★

ローマ帝国からやはり迫害され始めたキリスト教の信者は、地下の墓地カタコンベで集会を開くようになるこれが四分統治。そしてマクシミアヌスがイタリアとアフリカを統治しまさて、このディオクレティアヌス帝。彼が自ら引退後の隠居生活を送る場所として宮殿を建てたのが、そう、今のクロアチア、スプリトなのです。ディオクレティアヌス(在位:284年-305年)は、305年に政治から引退しました。彼は自分の故郷の近くに隠居用の宮殿を建てるよう命じ、故郷ディオクレア(今のサロナ近郊)にほど近い、海辺の町スプリトを建設の地に選びました。

ローマ法王を輩出するほどの家柄宮殿はどっしりとした構造をしており、上記の写真でご覧戴けるように、ほとんどローマの軍事要塞のようでした。宮殿南側は海に面し、その城壁は170メートルから200メートルの長さで高さは15メートルから20メートル。この潤沢な宮殿と周囲には、当時8,000人から10,000人の住民が暮らしていました。476年に西ローマ帝国が滅亡すると、スプリトは東ローマ皇帝の支配下に置かれます。しかし、639年頃にスプリト近郊のサロナが他民族の侵攻で略奪されると、住処を失った市民の大多数が近郊のアドリア海諸島へ逃れました。

ナポリ王国と呼ぶようになった

イタリアの近代化を急ごうとしていた多くの人々の目には、それは葬り去るべき

イタリア語の字幕が出、子どもたちがスマホにはあれだけ機能が充実しているのだから、そういう設定は自動でやってくれるだろうと考えがちです。しかし、どの回線を使用するかは、自分で設定しなければいけないのです。現地についたら設定を忘れずに!機種によって違いはありますが、スマホの設定画面を見ると「キャリア」という項目(またはそれに類似した項目)があります。これまでそこを変更していなければ、「自動」になっているはずです。「自動」の場合、周辺で利用できそうな回線をスマホが自動的に探すので、たとえD社と提携していない社の回線でも「使える」と判断してつないでしまうのです。

やっぱりタイのお土産と言えばこちらです!

ですからこの「自動」の設定をはずしてしまいましょう。そうすると現在使える回線の候補がでてきます。あとは提携している社の名前を選ぶだけです。以後、設定を変更しないかぎり社の回線を使い続けることになるので、異常な額の請求がくることはありません。この設定は現地に着いたら絶対にやりましょう。

  • イタリアの学生が話し始めた
  • ミラノ·トリノ間の高速道路から見える、水田を隔てはるかに雪のアルプスを望む景色は信州と言っても通用してしまう
  • ローマ時代に作られた四角い最初の城壁の名残だ

 

 

イタリアと言えば芸術

十字軍に参加した諸侯は、宗教的な動機と共に、戦勝時の利益への目算も当然あったであろうと考えられています。なぜならば、宗教的な情熱が強かったはずの第1回十字軍ですら、エデッサ伯国やアンティオキア公国などの領土の確立に走る者が出ており、の首都コンスタンティノポリス(現イスタンブール)を攻め落としてラテン帝国を築くなど、動機の不純さを露呈しているのです。のみならず、同じカトリックの国であるハンガリーまで攻撃し、教皇に破門宣告までされています。第锏十字軍に至っては、キリスト教正教会国家である東ローマ帝国また、十字軍は純粋に軍人だけで構成されていたわけではなく、従者のほかにも巡礼者や女,子供、娼婦など雑多な人間が混じっていました。エルサレム到着後、巡礼としてやってきた人々が移民としてそのまま居住するようになることは多く、西欧系の住民の補充は続いていたのですが、圧倒的多数の現地住民からしてみると十字軍国家は異端の存在であり続け、真に根付くことはなかったのでした。

ミラノの東、百キロ程の所にブレーシャという工業都市があるが、ここから更に車で三十分も走った田舎町に、こぎれいでとんでもなくうまいレストランがあって驚いたこと

これを補うために作り出されたのが騎士修道会(騎士団)であり、1119年に創設されたテンプル騎士団と1113年に認可された聖ヨハネ騎士団、そしてそれにやや遅れて1199年に公認されたドイツ騎士団の三大騎士団がエルサレムや十字軍国家内に駐屯し、実質的な常備軍としてキリスト教諸国家の防衛に当たったのです。この地方に土着した貴族たちはイスラムの文化を少しずつ受け入れ、次第にイスラムに融和的な姿勢をとるようになっていきました。これに対し、西からあらたに十字軍としてやってきた将兵はイスラムに敵対的な態度をとり、第2回十字軍の時に十字軍国家と同盟関係にあったダマスカス(今のシリアの首都)解せずに軍事行動を起こすことも多く、両者は十字軍内でもしばしば対立を起こしていたのでした。を攻撃するなど現地の事情を理エルサレム回復を目指す本来の十字軍は1249年までで実質的に終わったと考えるべきでしょう。1291年には最後の拠点アッコンを失ってエルサレム王国も滅亡し、全てのパレスチナはイスラム勢力下に入ったのでした。

 

イタリアでは別に違法ではないらしく、警備の警官の前でも堂々と客に声をかけ売っているのが面白いところ

ローマに居るのが当然という考えもあったでしょう設計者である坂さんは「紙」をつかった仮設住宅建設など、被災地支援でも知られる世界的な建築家である。彼は世界の災害復興に建築という具体的な解決方法でいくつものプロジェクトに取り組んでいる辣腕であった。地震直後、坂さんはすぐにラクイラ市長に連絡を入れると、町の交響楽団や音楽院の学生たちが演奏をする場所がなくなったことを知り、自ら仮設音楽ホールを造りたいとラクイラ市に申し出たのだ。ただ連絡しただけではない。市長にみずからのプロジェクトを了承してもらうために、現地へ何度も足を運び、その熱意と誠意を示したのだ。

ミラノの空を彩るのはビオッポと呼ばれるポプラの綿毛天災の中で人の心を強くするのは、一人ひとりが支え合う力だということを実行した人である今、私は丘の上の音楽ホールに立っている。満天の星の下でラクイラ市の夜景を見ると光の点滅がなんと少ないことか。復興を加速し本来の活気あるラクイラ市に早く戻って欲しいと願ってこの町を立ち去った。パガニカ「大地震の体験者」ラクイラ市から八キロほど離れたところにパガニカという小さな町がある。この町も1100九年の震災で被害を受けていた。

イタリアのこと、そうそういつも専門店に行ける訳でもないので、その隙間を埋めるような形で通信販売が結構普及してきている

イタリア語だが、進むにつれてそうは問屋が卸さないということが判ってきた

海外パケット定額は、およそ25MBまでの通信料金が1980円しかし終わったのが午前1時半近く、隣の席に座っていたドイツ人夫妻は最後の場面を見ずに帰ってしまったが、おそらく「予習」してなかったのだろうな。でもこんな風にローマの遺跡を現役のオペラ劇場として使ってしまうという発想は、歴史を現代に生かすイタリア人のならではの発想と感慨深かった。我々日本人にとってはオペラと言うとどうしても重たいイメージになってしまうが、イタリア人にとっては、はるかに親しみやすい存在なのは間違いないようで、ポピュラーなオペラの曲をTVコマーシャルで聞くことはよくあるし、サッカーを見に行くと応援歌がオペラの替え歌だったりする(ベルディやプッチーニが多いのはお国柄か)私が丁度ミラノに来た頃、イタリアでもカラオケが大流行していたが、その原因の一つがテレビの、その名も「カラオケ」というそのものズバリの番組であった。この番組は各地を回って地元の出場者に喉を競わせるという、まあNHKののど自慢のような番組で、司会者のフィオレッロという歌手はカラオケの王様と呼ばれ、翌年のサンレモ音楽祭にも出場する活躍ぶりだったのだが、イタリアならではと思ったのは、ここにもオペラが登場するのである番組の中では「カラオペラ」と言っていたが、素人が出て来て堂々とオペラのアリアを歌うのには驚いてしまっイタリア人にとってオペラは日本人にとっての演歌のようなものかもしれない。ミラノのサンシーロ·スタジアムはACミランとインテルのホームイタリアのスポーツと言えば誰でもまず最初に思い浮かべるのがサッカー。

お気に入りのイタリアのお土産

九四年の米国ワールドカップで、ブラジルとイタリアがPルKで決勝を争ったのもまだ記憶に新しぃところだろうし、三浦カズ選、手が当時セリエA(一部リーグ)のジェノアで活躍したお蔭で日本でともイタリアのサッカーはすっかり馴染み深くなったようだ。ミラノにラはACミランとインテルの2チームがセリエAで活躍している。両ACチームの本拠地がミラノ郊外にあるサンシーロ·スタジアム。一九九0年のワールドカップ開催時、三階席まで増築された屋根つきスタジジアムは収容人員八万人、セリエAの定期戦が行われる毎週日曜日にはスファンたちであふれかえる。ロッサ私の自宅はこのスタジアムから僅か二百メートルの距離で窓からは十階建位のビルに相当する高さのスタジアムが迫り、試合当日には大袈裟ではなく歓声と振動で震度1くらいとなり家が揺れるのである。

  • ローマで大火がおきました
  • ミラノからも高速道路で五十キロ、ほんの三十分かそこらで国境を越えてしまうので、東京都内からディズニーランドに行くくらいの気楽さだが、やはり雰囲気は
  • イタリアの伝統的なそれとは明らかに異なっており

 

 

ローマで再逮捕

ミラノに来た当初は随分驚いたが、その内に慣れてしまい街角の風景の一部と化してしまうのも不思議だ。これだけ堂々とあちこちに立って営業しているから合法かと思うと、どうも違法のようで、見回りのパトカーを目敏く見つけて、走って裏通りに隠れる姿も時々見かけるミラノで傑作でもあり、また危険なのは、女性かと思うと女装した男性(もしくは性転換した男性が街角に立っていることで、そのような場所は名所と化しているらしく、夜になると郊外から来る見物の車で引きも切らない。何故こんなことに詳しくなったかと言えば、私の勤務する会社の裏通りが、夜遅くなるとこの手の人達(つまりオカマ)の溜まり場となるためで、車で帰ろうと思ったら近郊のコモやらバレーゼ、ベルガモなどのナンバーを付けた車で大渋滞した経験が何度もあるからだが、売り手と買い手のいざこざからペルー人のオカマの一人が殺される事件が起こるに至り、近所の住民から市当局に警備強化の要望が出された。暫くは夜になると警察の車が常駐していたが、ほとぼりが醒れば、向こうも商売だからまた舞い戻って来るのは容易に想像出来ること。当局もこれではいかんと思ったらしく、ある日突然この裏通りの改修工事が始まった。

ヨーロッパ最高峰のモンブランを始め、モンテローザ、マッターホルン

車が通りにくい構造にしたり、花壇を道の真ん中に作ったり、随分と費用がかかった筈だが、さてその結果は…どうも税金の無駄遣いだったような気がする。こは中南米から来た人達が多いらしく、ある週末、どんな経緯か知らない確か前述の殺人事件の直後だったと思うが、ミラノの有力紙であるコリエーレ·デッラ·セーラが、ミラノ市内の路上観察調査を行い、分布図を作ったことがある。この種の人達がよく出没する通り毎に、人数、出身地、性別などを調べたものだが、それによれば会社の裏通りの人達は、間違いなくペルーやブラジル出身の男性のようだ。また、私が自宅に帰る道すがらに立っている人達はボスニアやアルバニアなどから来ている女性達であることが判った。出身地を見ると地理的·経済的関係からかアルバニアや旧ユーゴスラビア、東欧諸国やアフリカが多いのはわかるが、中南米出身というのはどういうことなのだろうか。

 

ヨーロッパでも11週間以上かかる例も希ではない

イタリアの町は戦災のあとも昔の通りに復元された町並みが多いから、町の雰囲気は戦前とそう変わってはいない案内書には、この町で生まれ育ったひとりの哲学者がいると書かれていた。日本でも戦前戦後にかけてよく読まれた哲学書『ヴィーコの哲学』で知られるベネデット·クローチェである。彼もまた神に守られた一人だったに違いない。しばらく歩くと1111四〇メートルもあるペトローソ山が遠くにそびえ立っていた。この山はアブルッツォ国立公園とマイエッラ山塊国立公園の境界をなしている。

イタリアが同時にかかえるふたつの顔なのアブルッツォ州の国立公園は野生的な自然が多く、手つかずのまま放置されているという感じだ。ヤギに似た珍しい動物「シャモア」やアブルッツォ産「オオカミ」まで住んでいるという。公園内に点在する町は何千年も続く歴史や手工芸の伝統を守っているスカン切り妻屋根の家並み」アブルッツォ国立公園は、なだらかな山脈もあれば、荒々しい景観や深くえぐったような谷などさまざまな表情をもっていた。特に力強い断崖の上を走る車の窓から眼下に広がる景色や絶壁は迫力満点だった。日本のアルプスでは見ることができないスケールの大きな風景がそこにはある。

ローマを訪れた

ミラノの大聖堂などにみるような、天に昇れ昇れとばかりにのびる建築

ベローナへと向かう青い澄み切った空の下で、あの遠い日に起きた出来事はまるで嘘だったかのように、海の美しい輝きは今も昔も何一つ変わっていない。そのギャップを感じながら、時を超えて今につづく静寂に満ちた景色を私は忘れることができなかった。では、オルトーナの歴史を振り返ってみよう。ワイン造りに適した地オルトーナの要塞は、「アラゴン要塞」と呼ばれ、ナポリ王国を領有したアラゴン王アルフォンソ五世が一四四八年に建てたものだった。その後、このオルトーナは時を経てイタリアの貴族「ファルネーゼ家」に嫁いだオーストリアのマルゲリータ王女に買い与えられた。

買い忘れた時でも大丈夫、オーストラリアのお土産

一五八二年のことである。テラモ県の「カンブリ」という町でもすでにファルネーゼ家について触れたが、ファルネーゼ家はイタリアでもローマ法王を輩出するほどの家柄であった。カンブリの町は陶器や毛織物で潤っていたが、マルゲリータはこの土地にもビジネスチャンスがあると考えたのだこの紺碧のアドリア海を見ながら彼女が考えたのは、この地で伝統的に受け継がれてきたワイン造りだった。このアドリア海沿岸の地域やその内陸で生まれるワインはまたたく間にヨーロッパの宮廷祝宴で好評を博したという。確かに、海岸沿いを走りながら右手に見えるなだらかな丘は、どこもかしこもブドウ畑だった。

  • フィレンツェ近郊に生まれます
  • イタリア人にとって身近にない文化だから劫って興味を持って読まれるのかもしれないが、未だに謎
  • ミラノではごく普通の現象

 

 

ローマで児童虐待の罪で逮捕されたアルバニア人グループは、不法入国したアルバニア人の子ども達に

さて謎解きです。なぜMDCCCXVが1815なのでしょう。時計の文字盤などで、皆さんも1,2,3,4がローマ数字では1,11,111,IVと表わされることはご存じだと思います。時計では12までしかありませんので、X11で終わってしまいますが、実はその先がまだあるのです。時計の例で言えばv-5、X-10、これらの文字の左に1が来てIV,IXとなればそれぞれ1を差し引いて4と9を表し、ぞれ1を足して6、11となりますね。

ローマ帝国と教皇の意見相違が絶えなくなるのでした

同じ原理がもっと大きな数字でも応用できるのです。右側に1が来てVI,XIとなればそれローマ数字ではx-10の上にし:50,C-100.D-500、M-1000と続きます。つまり、前記の例で言えばMDCCCXV=1000+500+100×3+10+5-1815と言うことになる訳です。この方式で言えば今年、2013年はMMX111となります。ややこしいですね。

 

ペルージャとの戦いの場へと向かった

ミラノでは会社や銀行、それに役所も大体朝八時半の始業であるが目的地に向かうのに絶対に必要なのが“地図”。日本でもみなさんよく使っているであろう「マップ」はどう行けばよいかがすぐにわかります!ナビ機能を使えば、あなたをしっかりと目的地までご案内。はオフラインでも使えますよ。アプリは、海外でもやっぱり便利。紙の地図と違って、自分の現在位置の確認、そこから目的地に行くにレンタカーを借りたけど、カーナビが全然あてにならない!というときにも対応できますGPS機能★使えるアプリは事前にダウンロードしておこう現地に着いてすぐに行動したい、翻訳アプリいざという時にあたふたしないためにも、便利なアプリは国内でダウンロードしておきましょう。

ナポリではリズムが違うし英語に多少の自信があっても、いざ話そうとすると、なかなか出てこないことも多いはず。翻訳アプリがあれば安心です。気軽に調べてどんどん会話しちゃいましょう。単語を調べたいときの辞書代わりにもなります。英語を話すのが苦手な方は、出入力に音声機能がついているものを。

イタリアでいまも国民的な人気を誇る聖女

イタリアと比べるとどうしても目立ってしまう

イタリアではエスプレッソを意味しいますこのセッテベロも今では現役を引退し、ファンサービスの為に時々特別列車として走るだけになってしまったため、滅多に見る機会には恵まれないが、たまたまミラノに来て間もない頃、フィレンツェに出かける早朝のミラノ中央駅で感激の初対面をした。さすがに多少古びてはいるが、ピカピカに磨かれた車両はとても四十年前のデザインとは思えない。カメラを持っていなかったのを後悔したが、何れまた再会の機会もあろうと、中央駅を出発する列車の中から「アリベデルチ」とつぶやいたものだ。十一月一日はオンニサンティ(日本で1万聖節と訳されている)の休日。前日のハロウィーンの方が日本では知られている。

情熱の国スペインのお土産と言えばこちら

この日はイタリアでは休日で翌11日が「故人を偲ぶ日」となっているためか、多くのイタリア人が家族揃って菊の花束を持ってお墓参りに行く。秋の一日、ご先祖様を慰める(という感覚がイタリアにあるのかどうかは知らないが)という慣習はいわばイタリア版お盆と言っても良いだろう。ミラノ市内のバスやトラムも郊外の主要な墓地迄特別運行をするし、車の後ろに菊の花を満載して走っている墓参りの車もあちこちで見る。また、各地の墓地の周りは駐車する車で一杯になる。イタリアの墓地は立派な入り口を持ち、周りを石造りの壁で囲まれているのが一般的で、そのスケールを大きくしたものがミラノの市内にある記念墓地(チミテロ·モヌメンターレ)である。

  • フィレンツェと覇権を争った
  • イタリアに住んで大分勝手が判って来ているので、食事の時も如何にも観光客向けのレストランは避け、裏通りの地味なトラッテリアに行って見たが、ここも外国人こそ少ないが今度は
  • ミラノ公国私たちも現在彼らの作品の多などの都市国家が群雄割拠の状態でした

 

 

イタリア語も出来ないので

外気にさらされてかなり剥げていたが、宗教画であることにはまちがいない。こんな外にまで神との対話を求めていた人びとがいたのだ。道路をわたると岩壁と洞穴の段差を利用し、道路より低い位置に建てられたシンプルな小さな教会であった。扉はかたく閉ざされていた。内部に入ることはできなかったが、質素で瞑想にふさわしい清雅な佇まいであった。

ミラノの電話帳を見ると、不思議なことにジャポーネ日本とかジャポネーゼ日本人という名前の人が載っているのだが一体どういう人達であろうか

案内書によれば、教会内の岩肌に描かれているのはイエス·キリストの生誕物語だという。歴史的価値があるこのフレスコ画を間近に鑑賞するのは次回のお楽しみ、ということになった。教会の脇に流れる小川のせせらぎが忘れられない。まるで水が語りかけているような音だった。このとき、生まれて初めて水に命があるということを意識したのだった。

 

トリエステ、南チロルなどに代表される未回収のイタリ지問題というものがありたのです

フィレンツェ出身の画家レムスを殺した紀元前753年4月21日はローマ紀元元年となって、西暦が導入されるまで(西暦とはキリスト生誕年を元年とするもの)使用されたのでした。ローマ市の誕生日はこの4月21日となっており、今でもこの日に祭りが行われます。王政から共和制へこの時代のローマは今現在存在する、フォロロマーノの中心にあるパラティーノの丘を筆頭とした7丘が生活拠点となっておりました。チルコマッシモをはさんでパラティーノの丘の南側、アヴェンティーノの丘ミケランジェロが建設したカンピドリオ広場の前、今の市庁舎が建つカンピドーリオの丘トレビの泉近くのクイリナーレの丘サンタマリアマッジョーレ教会近くのヴィミナーレの丘(左上)コロッセオの南東に位置するチェリオの丘(チェリオモンターナ)サンタマリアマッジョーレ教会裏エスクイリーノの丘などの7つの丘を中心に栄えておりました。今、町として栄えている昔の丘と丘の間は、その昔沼であり、この沼ではマラリアが蔓延しており、健康上の問題より人々はの上に住んでいたのでした。

イタリア人気質丸出しになることが多く、時折いる女性のタクシー·ドライバーといえども例外ではないところが紀元前6世紀、5代目の王が高度文明をもつエトルリアの血をひく優れた王であり、この王が排水工事を行い、丘の麓にも町が広がり始めたのです。このときにセメントが発明され、水道橋が作られます。そして有名なフランスのボンドゥガールなどが建築されるのです。子豚の丸焼きで有名なセゴビアの水道橋タラゴナの水道橋リスボンの水道橋さてではなぜ水道橋をつくったのでしょうか??たとえば、今のローマで番人気の高い観光地、そうスペイン広場。実はこの広場にある泉の水は今でも当時の水道橋を利用して水が供給されているのです。

イタリアとして

イタリアとアフリカを統治しまさて、このディオクレティアヌス帝

ョッキニョッキとのびる建築。この高さを成功させるために生まれた技術が尖頭アーチ。ロマネスクの円筒アーチを発展させた物です。そしてそれだけでは天上を支える力が少ないので、今度は壁から支えるために開発されたのが、フライングバットレス。上記の二つの技術のおかげで、壁を薄くすることに成功するのでした。

やっぱりタイのお土産と言えばこちらです!

そしてその壁をくりぬき、新たにくわえられたものが、そう、ステンドグラス。こうしてゴシック建築の特徴·築物ができあがるのでした。ニョッキニョッキと天に向かってのびる建築、そしてこれでもかとちりばめられるステンドグラス、さらにはガーゴイルと呼ばれる雨樋でもある魔除けなどはリ、神々い建この様式は16世紀頃まで流行ります。ルネッサンスそしてとうとうルネッサンスです。上記のゴシック建築はさほどイタリアでは流行らなかったのでした。

  • ミラノでは十二月七日が守護聖人であるサンタンブロージョ聖アンブロ-ジョの日
  • イタリアの旅行記にもこんなことは書いてなかった
  • イタリアにはこの他にも一六か所の教会の壁面に回文が刻み込まれているのが発見されているフランスとスイスに国境を接している

 

 

ペルージャはその昔、エトルリア人によって建設された

宗教改革の嵐の中で新しい理念をもって創設されたイエズス修道会の存在を知ると、刑期を終えたら入学試験を受けたいと真剣に考えた。本来ならば「罪人」は聖職者になれないし、入会もできないが、彼が名門の出であること、人が変わったように真面目になったこと、そして何よりも飛び抜けて成績がよかったことなどが加味され、試験資格を得て合格する。イエズス会士アレッサンドロ·ヴァリニャーノの誕生であるそして、ローマにあるイエズス会のローマ学院で布教に必要な知識をさらに学んだ。「お父上、私はカトリック教会を建て直すために本物の神父になって故郷に戻ってまいります」思った通り、ヴァリニャーノは最高の成績で終えると、すぐに教師の地位を与えられ、入会する修練生たちを教える側になった。この時一緒に学んだ同級生に、のちのイエズス会会長アクアヴィーヴァがいた。

彼とは終生の親友となり、ヴァリニャーノのアジアでのカトリック布教を精神的にも物質的にも支える人物になる。彼の学生の中にはのちに中国布教の立役者となったマテオ·リッチがいた。「カトリック教会を立て直す」と言ったのは、この時代、マルティン·ルターによる『九五ヶ条の論題』がヨーロッパのカトリック教会を脅かしていたからである。宗教改革の幕開けは、第。のカンブリという町で綴った、ローマにあるあの「スカラ·サンタ」が引き金になっていたなどと誰が想像しただろうか。

 

ラクイラで栽培されているサフランを使用しているから

ミラノのあるところは平原で郊外には湿地帯や林が拡がり、市内にも結構緑地が多いので、蚊の発生する場所には事欠かないと言うことだろう。実際、初夏になるとスーパーマーケットの棚には、虫よけスプレーや虫刺されの薬と並んで、蚊取り線香と無煙蚊取り(日本のスープ」がライセンス生産されており、イタリア語読みで「バベと言う)が大々的に売られているのには驚いた。ミラノの家には冷房がないから、夏は窓を開け放し、タッパレラという鎧戸を薄く隙間を空けて閉めておくのだが、我が家などはアパートの五階なのに夕方になると酉日のあたる外壁の上昇気流に乗って蚊が入って来るのには悩まされた。次女のためにベビーベッド用の蚊帳を買ったのだが、スーパーマーケットでよく見たら、大人のベッド用の蚊帳も売っていたのにもびっくりである。夏場、レストランで中庭のある所などは、テーブルを外にしつらえ、葡萄棚の下で食事が出来るようになっていたりする。

よく晴れた日の夜(と言っても日が長いので午後九時過ぎでもまだ明るい)、こうしたレストランで食事をするのは本当に気分の良いものだが、ここでも蚊の攻撃から逃れることはなかなか難しい。レストランの方も殺虫灯を設置したり、各テーブル毎に蚊取り線香を置いたりと防戦にこれ努めているが、もしこうしたレストランに事前に行くことが判っていれば、防虫スプレーをたっぷり手足にかけて出かけるより他に手段はなさそうである。それなりの苦労を厭わなければ、楽しみもまたないと言う訳だ。夏休みにアルプス東部のドロミテ山塊で過ごした時のこと。幸い天候に恵まれ、連日あちこちの山に登ったり、峠に建つホテルから四方八方に伸びる散策路を散歩していたが、ある時突然目の前に現れたのが、第一次大戦中のトーチカの跡森林に囲まれた小高い丘の頂上を削り、北から東にかけ、ほぼ九〇度の角度にぐるりとコンクリートで半地下の頑丈な壕が作られている。